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行基 千利休 小西行長 与謝野晶子 阪田三吉 織田作之助


行基 668(天智7)〜749(天平21)


父は高志氏。
高志氏は王仁(わに)の後裔とされる西文(かわちのあや)氏の一族で、即ち百済系渡来氏族。
母は河内国大鳥郡の蜂田首の出。

河内国大鳥郡(現堺市)に生まれ、15歳で出家、道昭を師とし(注)、法相宗に帰依する。24歳の年、受戒。初め法興寺に住し、のち薬師寺に移る。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪力・神通力を身につけた。
37歳の時、山を出て民間布教を始めたという。710(和銅3)年の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発し、これら逃亡民のうち多くが行基のもとに集まり私度僧になった。

717(霊亀3)年、朝廷より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧される。この時の詔には「妄に罪福を説き(輪廻説に基づく因果応報の説)、朋党を合せ構へて、指臂を焚き剥ぎ (焼身自殺・皮膚を剥いでの写経)、門を歴て仮説して強ひて余の物(食物以外の物)を乞ひ、詐りて聖道と称して、百姓を妖惑す」とある。

また僧尼が許可なく巫術(舞を以て神を降す)により病者の治療をすることも禁止している。
こうした弾圧にもかかわらず行基集団は拡大を続け、722(養老6)年には平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者を広げていった。

723(養老7)年の三世一身法は自発的な開墾を奨励し、これを機に池溝開発を始めとする行基の活動は急速に発展、その声望は各地に高まった。
行基の影響力を無視し得なくなった朝廷は、731(天平3)年、高齢の優婆塞・優婆夷の得度を許し、740(天平12)年頃までには行基を薬師寺の師位僧(五位以上の官人と同等の上級官僧)として認める方針をとった。

同年の恭仁京遷都を境に、新京造営・大仏建立といった政府の事業に行基とその弟子の参加が見られるようになる。

聖武天皇は行基への傾倒を深め、紫香楽遷都直後の745(天平17)年正月には、異例の大僧正に任じている。

また平城還都後の747(天平19)年には、光明皇后が天皇の眼病平癒を祈り、行基らに命じて新薬師寺を建立したという(東大寺要録など)。749(天平21)年1月、聖武天皇に戒を授け、その翌月、菅原寺東南院に遷化し(82歳。続紀によれば80歳)、遺言により火葬に付された。

「和尚、霊異神験、類に触れて多し。時の人号(なづ)けて行基菩薩と曰ふ」(続紀没伝)。

 
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